以下、目次となります。
ミャンマーってどんな国?
①ミャンマーの歴史
ミャンマーでは初期の文明としてはモン族がイラワジ川流域に栄えましたが、南下してきたビルマ族が1050年代にパガン朝を立てました。パガン朝が1287年にモンゴルの侵略で滅ぼされた後は、小国分立しましたが、ビルマ族のタウングー朝が1531年に国土を再統一しました。
タウングー朝は1752年にモン族に滅ぼされましたが、間もなくコンバウン朝が成立して全ビルマを統一しました。19世紀に3度にわたる英国との戦争でコンバウン朝が滅びた後は、イギリス植民地となり、1886年にイギリス領インド帝国の一州とされましたが、1935年にはインドと分離されました。
第ニ次世界大戦中1941年にビルマに侵攻した旧日本軍は、「ビルマ建国の父」として知られるアウンサン将軍らと共にイギリス軍と戦って勝利し、42~45年ビルマを占領しました。
日本の敗戦で連合国に再占領され、イギリス植民地に戻りましたが、その後英植民地体制崩壊の流れの中で、1962年のクーデター後、ビルマ社会主義計画党のネ・ウインの独裁軍事政権となり、1974年に国名をビルマ連邦社会主義共和国と改名しました。しかし強引な政策によって経済は混乱し、貧困化が進行しました。
ビルマ軍事政権支配下の閉塞状況を打破しようと、学生を中心として民主化闘争が始まりました。1988年、ネ・ウイン将軍は退陣、ビルマ社会主義計画党も解散し、民主化デモは最大の盛り上がりを見せ、ゼネストとデモが全土に及びました。
民主化運動を進めたアウンサンスーチーは国民民主連盟(NLD)を結成しました。これに対して国軍は武力を行使し、発砲して民主化運動を弾圧し、軍部独裁政権を樹立しました。1989年、軍事政権は国名をミャンマー連邦に改め、民主化運動の指導者アウンサンスーチーを自宅軟禁しました。
1990年に総選挙が行われ、国民民主連盟(NLD)が圧勝しましたが、軍政は政権の移譲を拒否し、アウンサンスーチーの軟禁も続きました。
2007年ヤンゴンなどで僧侶を中心とした大規模な民主化デモが発生し、ここでも運動は抑圧されましたが、軍は2011年に民政に移管することを約束し、新憲法を作成し、国民投票で承認されました。2010年アウンサンスーチーの自宅軟禁を解除し、2011年民政に移管しました。また国名をミャンマー連邦共和国に改名しました。
2020年、アウンサンスーチー政権の2期目の総選挙が行われ、与党のNLDが改選議員の8割の396議席を占めて信任を受けました。
これに対しミャンマー国軍は、2021年2月1日クーデターを起こし、アウンサンスーチ―国家顧問と大統領を拘束し、「軍が国家の権力を掌握した」と宣言し、クーデターを指導した国軍のミンアウンフライン最高司令官は、一年間の非常事態宣言を出して、この間に選挙のやり直しをすると言っています。
②ミャンマーの概要
ミャンマーは、東南アジアのインドシナ半島西部に位置し、約67万平方キロメートルの広さがあります。日本の約1.8倍です。国境は、南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと接します。
人口は推定5404万人ほどで、人口のうち70%をビルマ族が占め、その他は数多くの少数民族によって構成されます。産業は主要農産物が米で、農地の60%を水田が占めます。その他、ヒスイや宝石、石油、天然ガスなどの鉱物資源が豊富であり、再生可能エネルギーにも恵まれており、太陽光発電のポテンシャルは大メコン地域では最大と言われています。
ただ経済の大部分が旧軍事政権の支持者によって支配されているため、ミャンマーの所得格差は世界で最も大きいとされています。
国民の約9割が仏教徒です。公用語はミャンマー語ですが、1948年まで英国の植民地だったことから、英語を話す人も多いと言われます。
日系企業は400社以上が進出し、在留邦人は約3,500人です。
アウンサンスーチーとは
アウンサンスーチーは、ビルマの独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘です。
敬虔な仏教徒であり、使用言語はミャンマー語、英語、フランス語、日本語を話すことができます。各国の報道では、「アウンサン・スーチー」、「スー・チー」などと表記されることもありますが、ミャンマー人は姓(名字)はなく、ミャンマー国内では「アウンサンスーチー」の一語で表記します。
アウンサンスーチー(以下「スーチ-氏」という。)は、1945年イギリスの統治下であったビルマの首都ラングーンで生まれました。
学生時代は、母親のインドへの全権大使としての赴任で、一緒にインドのニューデリーにわたり、同地の修道会学校、デリー大学を卒業し、マハトマ・ガンジーの非暴力不服従運動の影響を受けたとされます。その後イギリスのオックスフォード大学で哲学、政治学、経済学を学びました。
大学卒業後は、アメリカにわたり、国際連合事務局で勤務しましたが、ブータンに在住したチベット研究者のマイケル・アリスと結婚し、2児を設けました。
1985年、国際交流基金の支援で、京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、約9か月間、父アウンサン将軍についての歴史研究を行いました。
1988年、ビルマに戻ったスーチー氏は、ネ・ウイン軍事政権下の閉塞状況を打破しようとして始まった学生を中心とした民主化運動に参加し、民主化デモは最大の盛り上がりを見せ、ゼネストとデモが全土に及びました。
民主化運動を進めたスーチー氏は国民民主連盟(NLD)を結成しました。これに対して国軍は武力を行使し、発砲して民主化運動を弾圧し、同年軍部独裁政権を樹立し、翌年国名をミャンマー連邦に、首都をラングーンからヤンゴンに変更しました。さらに民主化運動の指導者スーチー氏を自宅軟禁しました。
1990年に総選挙が行われ、国民民主連盟(NLD)が圧勝しましたが、軍政は政権の移譲を拒否し、スーチー氏の軟禁も続きました。そのスーチー氏に対し、1991年ノーベル賞平和賞が授与され、国際的な関心が高まりましたが、彼女は授賞式に参加できませんでした。
2006年、ミャンマーの軍事政権は首都機能をヤンゴンからネピドーへの移転を強行しました。2007年、ヤンゴンなどで僧侶を中心とした大規模な民主化デモが発生し、軍は運動を抑圧しましたが、2011年に民政に移管することを約束し、新憲法を作成し、国民投票で承認されました。2010年にスーチー氏の自宅軟禁は解除され、スーチー氏は政治活動を再開し、2012年の補選で当選して国会議員となりました。
2015年の総選挙で彼女の率いる国民民主連盟(NLD)が第1党となり、大統領となる可能性がありましたが、憲法の規定(夫が外国人であるため)によって立候補できず、国家顧問兼外相というポストに就き、実質的な国家元首となりました。
2020年、アウンサンスーチー国家顧問の2期目を認めるかどうかの総選挙が行われ、与党のNLDが改選議員の8割の396議席を占めて信任を受けました。野党の国軍系USDPは前回を下回る33議席にとどまりました。
2021年2月1日、ミャンマー国軍は「軍が国家の権力を掌握した」と宣言し、アウンサンスーチー国家顧問、ウインミン大統領等を拘束したと発表しました。国軍は前年11月の総選挙で国民民主連盟(NLD)が圧勝し、アウンサンスーチー政権が信任されたことで、国軍が警戒する憲法改正などの民主化が進むことを恐れ、クーデターを決行したものと思われます。スーチー氏と政権幹部は自宅軟禁下におかれ、政治活動の自由を奪われました。
今回の軍事政権樹立のいきさつ
ミャンマーでは、1日首都ネピドーで国会が始まるはずでした。スーチー氏が率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝した昨年11月の総選挙を受け、会期中に新たに大統領を選出し、スーチー氏は政権の事実上のトップである国家顧問への再任は確実視されていました。異変は直前に起きました。
国軍はスーチー氏やウインミン大統領らNLD政権の幹部を拘束し、非常事態宣言を出し、国軍トップのミンアウンフライン最高司令官が全権を握りました。「総選挙に不正があった」との指摘に政権側が対応しなかったためと主張しました。
総選挙で大敗を喫した国軍側の危機感は強いものがありました。2011年の民政移管を経た2015年の総選挙でNLDが勝利し、約半世紀に及んだ軍の政治支配に終止符を打つと、NLDは国軍の影響力をそぐため、国会の議席の4分の1を「軍人枠」としている憲法の改正に乗り出しました。
昨年の総選挙でも公約に掲げ、改選議席の8割を超す議席を得ました。一方、国軍系の連邦団結発展党(USDP)は惨敗し、軍人枠を含めても過半数に届かず、NLDに単独過半数を許しました。
国軍側は、2008年制定の憲法で治安関係閣僚の指名権を最高司令官に与え、国会に「軍人枠」を設けるなど、民政移管後も影響力を維持するための仕掛けを行っておりました。憲法改正には国会の4分の3超の賛成を必要とし、実現のハードルは高いとはいえ、NLDの圧勝ぶりは国軍側に脅威を抱かせました。
NLDの連勝は、スーチー氏の人気に負うところが大きく、「建国の父」アウンサン将軍の長女として生まれたスーチー氏は、1988年に民主化運動に身を投じました。軍事政権によって3度にわたり拘束・自宅軟禁され、その期間は計約15年に及びましたが、それでも意思を曲げず、そのカリスマ性を確立していきました。
スーチー氏のもとで、NLD政権の力は強まるばかりではないか、軍の退潮を食い止めるためには、NLD政権の2期目が始まる前のこのタイミングしかないと、国軍側は判断したのではないかと見られています。
国軍はかっての軍政時代に民主化運動を弾圧しました。再び権力をにぎった今、どう出るのか。国軍はクーデター翌日にミンアウンフライン氏をトップとする「連邦行政評議会」を立ち上げるなど、支配の既成事実化を着々と進めています。
諸外国の反応
バイデン米政権は2月11日、クーデターを指揮したミンアウンフライン国軍最高司令官ら国軍幹部10人と、国軍と関係の深い3社を制裁対象に指定しました。また米政府は、3月25日クーデターで権力を握ったミャンマー国軍系の複合企業2社を制裁対象にしたと発表しました。
制裁対象となる企業は、銀行やホテル、製鉄など幅広い企業を傘下に持ち、国内経済に強い影響力を持った企業で、企業制裁では米国内の資産が凍結され、米国民や米企業などとの取引が原則として禁じられます。
EUに加盟する27カ国の外相も、クーデターの指導者と、場合によっては軍系企業を含めて制裁を科すことで2月に合意しています。
英国及びカナダ政府も、軍高官への制裁措置を発表し、オーストラリア政府は防衛上の協力関係を一時停止しました。
中ロを含む国連安全保障理事会は3月、「デモへの暴力を強く非難する」との議長声明を出しましたが、国軍が開催した3月27日の軍事パレードを含む式典に、日本や欧米が欠席する中で、中国やロシアなど8カ国は出席しました。とりわけロシアは国防次官を送り、国軍トップは「真の友人だ」と持ち上げ、国軍の後ろ盾になるかのような発言が注目されます。
中国は、ミャンマーを戦略的に重んじ、国民民主連盟(NLD)と国軍側双方の関係構築を強めてきており、自国の権益を守るためにもクーデター後の情勢を慎重に見極めていると言われます。
経済開発の面で大きな潜在力を持つミャンマーは、巨大経済圏構想「一帯一路」の重要なターゲットであり、インド洋への玄関口であるミャンマー西部チャウピューと中国雲南省を結ぶ原油のパイプラインは、それぞれ2013年と17年に運用を開始し、米国がにらみをきかすマラッカ海峡を経由しない輸入ルートが開けています。パイプラインに沿うように鉄道の建設計画も進んでいます。
東南アジア諸国連合(アセアン)の首脳会議が4月24日、ジャカルタで開かれ、会議にはミャンマー国軍トップのミンアウンフライン最高司令官も出席しました。会議では、クーデターで国軍が権力を握ったミャンマーの情勢について話し合いが行われました。
会議ではミャンマー側から情勢の説明を受け、首脳たちが対応を協議しました。国軍側の弾圧で700人を超える犠牲者が出ていることを踏まえ、ミャンマー側に暴力の停止を要求するとともに、政治犯の開放やアセアン代表のミャンマー訪問、人道支援の受け入れなどを求めたと言われます。。
今後の日本の向き合い方
日本は「西側諸国で唯一、国軍とのパイプを持つのが強み」として、米欧とは一線を画した対話路線を取っています。両国の経済関係も深く、ミャンマーが国際的に孤立すれば、中国への接近を招くとの懸念もあります。このため、米英などが制裁に乗り出した後も制裁に慎重な姿勢を示しています。
日本政府の、ミャンマー政府に対する途上国支援(ODA)について、2019年度の日本のミャンマーに対する実績は、1893億円(内訳は円借款1688億円、無償資金協力138億円、技術協力66億円)で、詳細な支援額を公表していない中国を除き、先進国では最大の支援国となっています。
日本政府は、今回の国軍によるクーデターを認められないものとして、当面の間、新規案件を見送る方向で最終調整に入ったとされます。ただ、米欧のような「制裁」とは位置づけず、国軍とのパイプを生かして民主的な解決を働きかける対話路線を継続することとしています。
いずれにしても、ミャンマー国軍の暴力の即時停止と、拘束した政治家や市民たちの開放は急務であり、内政不干渉の原則から一歩踏み出そうとするアセアン諸国、国軍を擁護する中国やロシアと米欧の対立で停滞する国連安保理の機能回復、国軍に影響力を持つ中国にも働きかけるなど、アジアの一員として、事態の打開を目指す独自の日本外交が求められています。
クーデターその後
軍事クーデターから3か月以上を経過したミャンマーでは、今二つの「政府」があります。権力を握った国軍によるものと、国軍の支配を拒んで4月16日に民主派が樹立を宣言した「「統一政府」です。統一政府は、武力弾圧を続ける国軍に対抗すべく、人口の約3割を占める少数民族に共闘を呼びかけ、この少数民族を包含した統一政府こそが「正当な政府」だとの主張を行っています。
クーデター後市民生活は厳しさを増しています。武力弾圧や市民らの不服従運動などが経済に影響し、全国の米の平均価格は1月から5%上がり、燃料価格は約30%値上がりしました。銀行は多くが店舗を閉じ、ATMに長蛇の列ができています。現地に進出した日系企業も操業できていない工場が多いと言われます。
民主派勢力が樹立した「統一政府」は、5月5日、独自の部隊「国民防衛隊」を設立したと発表しました。国軍の弾圧から市民を守るための組織だとしていますが、国軍が武力行使を強めるための口実とされる懸念もあります。
拘束されたスーチー氏の支持者が立ち上げた統一政府は、SNSを通じて出した声明で(国軍側の)武力行使を防ぐ責任があるとしました。また、統一政府には国軍と内戦を続けてきた少数民族武装組織に協力を呼びかけ、連携して「連邦軍」を創設する構想があります。声明は、「70年以上に及ぶ内戦を終結させる」とし、国民防衛隊を「連邦軍の前段階」と位置付けました。部隊の詳細については明らかにしていません。
国軍側は、民主派勢力が国軍に対抗して設立した「統一政府」や「国民防衛隊」をテロ組織に指定したと5月8日発表しました。国軍側は、これらの組織が不服従運動への参加者らを扇動し、行政機構を破壊するために爆発事件や放火、殺人、脅迫などを引き起こしていると主張しています。
現地の人権団体「政治犯支援協会」によると、2月1日のクーデター以降、5月8日までに殺害された市民は776人に上ります。
この記事でのポイント
・国民の約9割が仏教徒。公用語はミャンマー語だが、1948年まで英国の植民地だったことから、英語を話す人も多い
・アウンサンスーチーは、ビルマの独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘。
・各国の報道では、「アウンサン・スーチー」、「スー・チー」などと表記されることもあるが、ミャンマー人は姓(名字)はなく、ミャンマー国内では「アウンサンスーチー」の一語で表記。
・2015年の総選挙でアウンサンスーチーの率いる国民民主連盟(NLD)が第1党となる。
・スーチー氏のもとで民主化への歩みを進めてきたミャンマーで、国軍が2021年2月1日にクーデターを起こし、権力を掌握。
・米政府は、3月25日クーデターで権力を握ったミャンマー国軍系の複合企業2社を制裁対象にしたと発表。
・EUに加盟する27カ国の外相も、クーデターの指導者と、場合によっては軍系企業を含めて制裁を科すことで2月に合意。
・日本はアジアの一員として、事態の打開を目指す独自の日本外交が求められる。
・2月1日のクーデター以降、5月8日までに殺害された市民は776人に上る。